2025/11/26

豚骨ラーメンを食べに行った。無限に替え玉ができるので、流石に3回はおかわりしようと思っていったら、どのタイミングで声をかけていいかわからず、こまった。

隣で食べている人がすごいスピードで「バリカタ!バリカタ!バリカタ!」と言っていたから、僕も本当はバリカタをお願いしたかったのに、なんだか恥ずかしくてできなかった。

3連バリカタがフリみたいになってたから、そこで外さなきゃいけないのかな、お笑いでいう緊張と緩和かなと思って、普通の硬さの麺を頼んだ。美味しかった。

 

2025/4/17

昔からの僕の持論で、愛と恋を峻別する意味はないと言うものがあります。これらを分けて論じたがる人たちは、愛を恋よりも高尚なものと位置付け議論を展開します。そもそもこのような区別に何か意義はあるのでしょうか。自分の感情を「愛」だ、「恋」だとわけること実益はどれくらいあるのでしょうか。感情のジャンル分けをしてその先に得られるものがあるのであれば、行っても良いのかもしれませんが、大体は愛>恋という結論にいたって、中高生がわかったような気になるだけです。しかも分類のせいで恋は若干の軽視されています。きっと恋に人権があれば、人類は最高裁まで訴訟に付き合わされていますよ。

ですので、今日限りで上記のように無益な区別はやめましょう。僕はこれよりももっと有益な「愛」そのものの定義の話をしたいのです。

最近気がついたのですが、愛というな距離を伴うものなのです。これはそばにいるから「愛」ではないという陳腐な話でありません。

人はどれだけ仲が良くても、物理的・心理的な距離がなくなることはありません。例えば、人間は触れ合うことはできますが同一の座標に同時に存在することはできませんよね。

また心理的距離に関しても、心が重なり合うと言うことはありません。心が重なると言うの思想・感情全てが一致するということですから、そんなものは到底あり得ない話なのです。

このように考えると人間というのはどのようにしても埋められない距離を抱えているという分けです。

その重ならない部分に向ける気持ち、それが愛がなのです。重なり合えない、重なり合わない相手に対して気持ちを向ける行為そのものが愛なのです。だから愛には距離が伴うものなのです。距離のないところに、愛はありません。

「そのままでいい」という言葉や「幸せになってほしい」というメッセージは、心理的・物理的に埋まらない(埋められない)距離を理解した上での言葉なのです。

遠くにいても人を思う気持ちそのものが愛なのですから、わざわざ恋と区別することで愛の定義を見つけ出す必要はないのです。

2025/4/7

シンプルに忙しくて死にそうです。忙しい時あるあるなのですが、やらなくてもいいことをついついやってしまいますよね。僕も今、課題を終わらせなきゃ行けないのに、日記を書きながらマジカルバナナをしています。

バナナと言ったら黄色、黄色と言ったら、太陽、太陽と言ったら星、星といった白色矮星、白色矮星といったら終わり、終わりと言ったら課題、課題といえばおわらない、終わらないといったら課題、課題といったら終わらない、おわらないといったらかだい、かたいといたらおわらない、おらわないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおらわない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおらわない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おらわないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおらわない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおらわないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない おわらないおわらないおわらないおわらない

 

あ、雷だ。